蓬門

世の隅でコソコソと蠢く

思想・表現の自由と制限

最近は表現の自由を制限する動きが強い気がする。

それらの多くは、自主規制やポリティカルコネクトを理由にした制限で、言ってしまえば、私(あるいは彼ら)が気にくわない表現をするな、という内容だ。そういった形での表現の萎縮を防ぐために、憲法に思想・表現の自由があるのだと思っていたが、社会の動きを見る限り、そうではないのかもしれない。

 

今日見かけたツイートは、児童への性的加害やロリコンペドフィリアの話。欧米では特に厳しい目が向けられている。世界では人身売買や性的搾取の被害を子供が受けているので、それらから子供を守るのは当然の話だ。

 

しかし、それが表現の話となると変わってくる。実在と非実在の話だ。実在する子供がポルノ映像の題材になるのはNGなのは当然だが、実在しない子供に対してはどうなのだろうか?欧米や日本の一部では、それも唾棄すべきものと扱われている。しかし、情欲の対象、あるいは表現の結果生み出される存在まで否定するのは、以下の二点から極めて危険ではないかと、私は考えている。

 

一つは思想・表現の自由の観点からだ。他者の表現を規制することは、社会から考え方の自由をなくすということだ。ある分野で規制を行えば、それが拡大していき、自由な

意思表示が阻害される社会に行き着くのではないかと私は恐れている。そして自由を奪った人間は正義の名の下に他者を攻撃するのだ。

 

もう一つは、個人が情欲の対象を理由に精神的な異常者、あるいは犯罪者として扱われるということだ。情欲に支配され実際に子供に手を出せば、それはもちろん犯罪であり、批判されるべきだ。しかし情欲を持ちつつも、実際に手を出さない人間までも異常者あるいは犯罪者として扱えば、人間の迫害につながる。人類は一部の人間を異常である、あるいは劣っていると規定して悲しい政策を実行したり恐ろしい差別したり、時には虐殺をしてきた過去があることを忘れてはならない。自分が正常であると思っていても、矛先が変われば、自分もその矛に貫かれる側になりうるのだ。

 

社会をより良くしていこうとすることは大切だ。しかし、罰則をあたえるときは法律によらなければならず、その法律は冷静な議論のもとに制定しなければならないというのは、人類が得た智慧だ。感情だけで他者を罰しよう、あるいは規制しようとする風潮には、私は危機感を感じざるをえない。

 

下記は今日見つけたツイート

正義感あふれることが逆に恐ろしい

 https://twitter.com/rachel_thorn_jp/status/1207091689636028416